ラ自宅のガラクタを集めて作ったドラムセット。
かなり足るを知った楽器だ(ウボン)
見るからに貧しかったこの子供たちは足るを知って満足できるのだろうか(スリン)
まったく足るを知ることのない街バンコク。
政府はまずここから改革を始めてもらいたい
タイの軍事革命政府──そうなんですよね?──が掲げる政策スローガンのひとつに「足るを知る経済」がある。漠然としていて具体的になにをどうすればいいかわからないが、日本人なら「清貧」の言葉を真っ先に思い浮かべるかもしれない。たぶん、これがもっとも近い訳語だろう。
「清貧」は、長く貧しい時代が続いた日本の国民──ホントなんですよ、みなさん──には理解しやすい概念だ。わびさびの概念にも通じる極めて「和」な言葉で、実践するのは善行でもある。しかし、これはタイ人に理解できる考え方なのだろうか。特に脱・発展途上国を目指して邁進している現代の彼らに? 私は疑問を持っている。なぜなら、彼らはいまちょうど足るを知るその上限ラインを引き上げたばかりだったからだ。
「足るを知る経済」というスローガンそのものは、私自身は非常によいと思っている。この10年、タクシン首相が登場して以降のタイは利益を得るのが美徳の時代だった。そのための手段は選ばないような感じでもあり、おかげでタイの国土は見事に改造され、売れるものはすべて売られた。「満ち足りても満足しない」ことがすべての時代だった。
80年代からタイに関わっている私にとっては、かなり胸が痛む時代だった。「ほどほどにしとけよ」「いい気になるなよ」と何度も思ったりした。日本人は高度成長時代を知り、バブルの繁栄を知り、それが吹き飛んだあとのみじめさも知っている。だからこの言葉に「そうだ、もうこのあたりでいいじゃないか」「これ以上を目指すと日本みたいになっちまうぞ」と反応するのだ。
しかし、こうした言葉は私が外国人だからこそ言えるのであって、まさにいま上昇気流に乗っている人たちには、ただのヨソ者の余計なお世話でしかない。
「足るを知る経済」を実践するには、わびさびやもののあわれを知る心が必要になる。それはたしかにタイにあった良さだが、彼らはそれを思い出す──いや、取り戻すことができるのだろうか。これも誰かに売り渡してしまった、なんてことは……絶対にないと願いたい。